Wednesday, May 22, 2013

伊藤親分と三九

東安における
伊藤親分と三九
昭和十七年頃のことだ。私は初めて伊藤親分に会った。そこは名古屋大学に於てである。
親分が満州国植村保健司長の命を受けて名古屋大学医学部にやってきた。
加藤三九朗を満州国に割愛するためにきたのだろう。
三九はその時大学内に居なかったので、大先生方が伊藤親分を歓迎する宴をある料亭で開いた。
そして三九の出席を待っていた。三九が行ってみるとそのとき早川先生もその場に居られた。早川先生は話題の広い人である。
その場には名古屋医学部長田村教授、院長勝沼内科教授、斉藤外科教授がおられた。これ等の大先生に対して一人の若い人で丸坊主の協和服を着た男が話をしている。
東北弁まる出しで満州建国の理想と現実を堂々とやっている。
三九はその当時名大の大先生にはちっとも頭が上がらないのでだまって聞いていた。
伊藤親分は、その時充分親分の風格を備えていた。
堂々と建国の理想と実際、東安省の実情を語って先生方を感銘させ、東安における医師養生等について大いに説き先生方もこれに賛成し、名大としてできるだけのことをすると約束された。
もうその当時は名大もあらゆる意味で人手不足であって、満州の果てに人を送るなんてことは不可能なことであった。
しかし、親分の熱意に動かされてそんな結果になったのであろう。
その当時満州大同学院とか満州建国大学には、高い理想の青年が日満鮮ソを通じて雲の如くっていた。
伊藤親分もその中でもまれた、のみならず中でも一頭地を抜いた存在となったのであろう。
その当時の親分は年令三十位.東北大学を出て山形内科に入ったらしいが、直ちに渡満、
大同学院に入学、多数の同志盟友を得て、満州国官吏となり、東安省の僻地に派遣されたのでる。爾来、彼は僻地関沢を天業とし内地に帰ってからも僻地、離れ島、農村医療等に全生命を投げこんでしまった。
三九は一目でこの後輩の親分にほれて渡満することになった。
其の問女房の家庭的にも学校でも私の渡満を反対する人が多くて因ったが、若さのあまり決行してしまった。
東安における生活は、私の女房のいうところによると、一代で一番愉快な生活であったという。彼女にはほんとうにたくさんの友達ができ、今に於いても命を友にした間柄としてうれしく交際している人が多い。女房を私の我がままから父母、子供とはなして一人東安に伴ったことは、私の一生の不覚であり、一生の成功であった。もし彼で彼女を死なせたならば、私は故郷に帰れなかったし、恐らく中国で骨を埋める結果となったであろう。彼女が今思い出して満州東安が一生で一番面かったというのは私の成功であった。
伊藤親分は当時斗酒なお辞せずの豪傑であった。
しかし酒に乱れることなく酒の上で人々を激励し、人々を慰め、自分の理想を語り、同志をつくっていった。彼は人を捨てるということは決してなかった。
親分の理想は真に五族協和の満州国の建国であり、日本民族の生きる地の国づくりであった。
私はそれに共鳴した。石原完蘭、中深加藤完治先生等の意見も同様であり、中国人、朝鮮人をえての大同会 (仮名私は名前を忘れた)の心からの団結があった。
他国侵略、異民族統治なんて言葉はあったが、それは一部の日本人の思い上った考えであって理想に燃えた人々は、そういうことのないぽんとうの五族協和の国をつくり、理想の国家をつくりたい志望に燃えていた。
親分の仕事は多かった。医者教育の指導もあり、人民の健康保全もあり、阿片禁止なんかについてはほんとうに一生懸命であった。
私共も親分と同心で、密山炭境の増産に協力し労働者の保全のため全力をつくしたが、今になってみれば結局それは侵略の手先に使われたことがあとでよくわかった。
炭坑労働者は各県から強制的に集められ、名誉の名のもとに強制労働に従われ、その健康も養も全くなっていなかった。
多数の病死者を出し労力は低下した。これについて東安省立医院は伊藤課長のもとに全力をぶって病疫、救護にあたったが殆んど効果をみとめることができなかった。
新立屯開択団の農地造成、水路構築を我々は天業翼賛と信じて奮斗努力したが、これも侵略とばれるしかないやり方であった。
労働者は日本の徴兵と同じく強制的徴収であり、強制労働に服せられたのである。
その健康を守ることが我等の使命であったが、全く無力にひとしかった。中国農民、朝鮮農民は収穫物の殆んどを供出の美名のもとにとりあげられ、日本人だけが米の配給を受けていた。その他の民族は米はとりあげられて包米、高梁の配給を受けていたにすぎなかった。
土地も土着農民はとりあげられて、日本開拓農民に与えられた。一定の規格のもとに日本人はその所有をみとめられたが、朝鮮、中国人にはその権利もなかった。それは五族協和でなく全くの侵略である。
日本の官吏、警官は絶大の権力をもち、軍隊はオールマイティである。
私達もその中にあって、日本人としてほこりと権利を大いに主張したが、今から考えると全く汗顔のいたりである。
医学院第三回生の東安医学院の卒業生を送り出すころ、戦争は益々激烈となり、敗戦のいろは益々こかった。
日本人全部は一億総玉砕、天皇を守れ、国体護持、奉還精神の理想に燃え、特攻精神で戦っていた。
第四回生募集の頃となって伊藤課長は東安を去って通化省の保健課長となった。
私達はさびしかった。親分を失ったのである。我々の理想も埋没しかけている。東安を去る前にの頃親分はよく言った。「日本にもパドリオが出来る」と、パドリオとは伊大利がムッゾリニーに叛いて連合軍に降伏したときの真相である。
親分は日本の降伏を予知していたのであろう。しかし、その頃は敗戦とか降伏とかいう言葉は禁句であった。
親分はその後通化でいろいろ苦労されたらしいが、終戦後共産軍の医官となり、例の如く僻地離れ島精神を発揮して中共軍のために中国の平和のために働いた。
そして共産軍最高の名誉である労働模範の表彰を受けた由である。
これは中国労働者でも仲々受けられない名誉称号であるが、日本人としては特に珍らしいものと思われる。
彼の真面目な性格、患者に対する無限の愛或は自己犠牲の強固な精神等がその結果となったものと思う。
親分が日本に帰ってから、時々私は彼と会ったがいつも彼は洋々たる風ほうで悠容せまらず、中国の大人の風格がある。こせこせする自分がはずかしい。
三九朗が相談したとき、悠々自適をすすめた彼の真撃の態度は私共夫婦にはうれしかった。
その後一年私もようやく悠々自適の何ものたるかが少しわかりかけてありがたく思っている。
悠々自適とは、自分の体力知力の半分以下の能力でなるべく人相手のことをやめて自然に親しむものではないだろうか。
昭和二十年八月頃、三九朗は必勝の信念がぐらついていた杉本医官と争ったことがある。
三九朗白く
「こんなことでは日本は負けだ」
杉本白く、
「絶対に負けません」
「負けると思うたら負けです」三九朗は黙した。
もう日本はだめだと思った。医学院第四回生の募集は、新京、奉天、京城等の遠隔の地で行われ、杉本医官は奉天での入学試険を終ると通化省の伊藤親分をたずねた。
昭和二十年八月初めのことである。
八月九日ソ連は日本に宣戦し、国境をおかして満州国領に侵入した。直ちに東安に帰った。東安はその日上を下への大騒ぎであったが、日本人全部が「引き揚げ」るというまことに妙な今まで考えたことのない結果となった。日本東安軍は殆んど南下して留守である。その隊長は安山県長田坂閣下と東安市長倉持氏をよんで、「勝手にせよ。軍は住民を守る力はないと宣言した。
県長、市長は直ちに協議して、東安日本人全部引き揚げの命令を出した。
東安省立病院は約百人に近い患者を入院させている。
引き揚げとはどういうことかわからなかった。
三九院長が田坂県長と話し、その後山崎事務官が省参事官とうち合せて患者だけは汽車で送る。
その他の者は全部歩いて戦かい且つ退くという命令を受けた。その日の夕方、即ち九日夜暗くて (電気は停電で、電灯もなければラジオも聞こえず) 人々の顔が殆んどわからなくなった頃、附近の家屋に火をつけてあかあかと東安が燃えあがった。その時杉本医官が最後の牡丹江発の汽車で東安に帰ってきた。
よく帰ってきた。杉本医官が居らぬと病院中は火の消えた如く悲観的であった。
伊藤親分から杉本医官が携えてきた文書がふるっている。
この文書を見てみんなが元気に振いたった。
それは、伊藤親分からの命令書であった。
日本文で、タイプライターで打った堂々たるものである。
白く、東安省立病院は全員あげて直ちに通化にいたり、通化に於いて省立病院を開設すすべし日本軍は通化において通化作戦を行い永久に通化を守り、日本の独立を期すという趣旨である。
その他こまかい命令が書いてあったか.三九はこれを読んで本当に喜んだ。
今ここで東安を出ていったところでこれからどこに行っていいのか一全く見当はつかない。
ちりちりばらばらはなって、うえと寒さで全員野たれ死にするより仕方がない。困ったことだ。
この際、省立病院は赤十字族を掲げて敵の手におり、患者の生命を完ふすべきだ等ともつくづく考えこんでいたところである。
そこに省立病院会貫通化にいたり病院を開設すべしという命令だ。
誰の命令でもない。伊藤課長の独断である。
他にこんな命令の書ける人は、その当時の満州には一人もいない。
通化省長にもその権限はない。新京の幹部連中とはもう交信もなく東安のことまで考えている人はいない状態である。
伊藤課長は数日前敗戦を予見して東安省立病院を救おうとしたのだ。そしてこんな命令を堂々と書いた。
タイプライターでもっともらしい形までつけた。しかしその時刻に於いては伊藤課長に東安省立病院に命令を下す権限はないのである。しかし、もし東安省立病院長が先見のある男であり、自分の命をかけてやれば、それはできたかも知れん。
だがしかし、三九は その書面をみたとき心に大きな勇気と安堵を覚えた。
すでに暗がりの中に並んで停車場に出発する用意の出来ている看護婦達の語れに向って最後の演説をした。
「諸君、諸君はこれからいろいろの困難に遭遇するであろう。しかし、その時いつでも笑ってその困難に耐えてくれ。これから飢えと寒さで生きることもむずかしくなるだろう。敵よりも恐ろしいものが待っている。しかし、出来れば諸君は通化にいって省立病院をつくって待っていてくれ。私共も出れば通化に行って再び諸君と会えるだろう。伊藤課長から今この手紙がきた。諸君の行先はきまた。諸君は道化にいってくれ。さようなら。元気でいけ。」
しかし、その後の運命は全く予期に反し、通化に出ることは誰もできなかった。
それでも出発に際し目的地の与えられたことは愉快なことであった。
杉本医官白く、「もう五六日前にこの手練がきたら何とかなったかもしれんが、今ではもう遅いわねえ。」
その通りであった。しかしその手紙は我々を勇気づけるものであったことを、今更ここで親分に感謝したい。
(第二十七号 四五・二)加藤三九朗

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