Tuesday, May 21, 2013

満洲国衛生行政の展望

満洲国衛生行政の展望
伊 藤 裕一
ま え が さ
招和十二年仙台の大学を出ると直ぐ満洲に渡り今年の四月末中共から引揚げるまで十六年の歳月を送った満洲は、私にとっては永遠に忘れることの出来ない土地となった。
満洲国の衛生行政官としての八年、中共治下にあった所謂人民の医生としての八年、この間にあって私は色々考へさせられ又教へられた。
今、十六年の大陸の生活から一日も忘れることの出来なかった祖国の土を踏み、祖国への愛情と信頼は祖国の正しい再建への熱情をかきたてゝ居る。
世界は今や総ゆる意味に於て、完全に二つの陣営に分れ、しかも恐るべく尖鋭化した状態のもとにある。
この二大陣営の接触点は正に祖国日本であり二大潮流は怒涛の如くおしよせ渦巻き乱れて居る。国民はこの渦中にあって祖国への愛情と民族の誇りを忘れつゝある。
私達はいたづらに他国の花をあこがれてはならない。
私達の貧しい醜い花は他国の花をはめたゝへあこがれることのみで美しい花に育ちはしない。
私達は心を合せ自ら努力し貧しい醜い花を美しい豊かな花に育て上げなければならぬのだ。
自らの力を信じ、これをはぐくみ育てんと努力するとき他国の花も私達の血ともなり肉ともなるのだ。
偉大な発展をとげつゝある新中国を学ほうとするなら、私達は先づ之を消化しうる力を持たなければならない。
先づ栄養源としての価値分析をしなければならない。
いかなる良薬であっても夫々の疾患、年令、程度等に応じて服薬しなかったら効かぬのみか、却ってその人の生命を奪ふことにもならう。

五族協和、王道楽土を実現し、アヂヤの平和ひいては世界の平和に寄与せんとした満洲国はその重要施策として国民の疾病予防治癒対策の完璧を期して諸施策が実行された。
国民の最も恐れて居たペスト、コレラ、天然痘等の急性伝染病の撲滅のため防疫施設と防疫組織の整備を実施した。
私は学生の時夏休を利用し満洲をまわって来ようと決心し、独乙の解剖学書ラーベルを古本屋に売り払って旅費を作り独り議然と大連に向った。
新京で南嶺の大同学院を訪ね四期の藤原、加藤、須藤先輩に会い満洲国の大理想と衛生対策の重要性とその意義を吹き込まれ、卒業したら満洲に人らうと決心した。
昭和十二年大同学院を出て民生部保健司に配属され、防疫科勤務にされた。川上六馬先生が霞科長で早速ペスト防疫の応援に派遣され、前部旗のペスト調査所で所長の加藤政司先輩の指導をうけ、如何にペスト防疫業務の烈しいものであるかを知らされた。
零下三十度の厳寒に我々防疫員は頭から足の先まですっぽりと白装束で身をかため、ゴム長靴に除虫菊の粉末を一ばい入れてまき、馬にのって発生地部落の検診を毎日やらなければならなかった。一軒一軒くまなくまわり問診、検温、触診(版下、鼠撲部等の淋巴腺)すること、予防接種をやること、死亡者は疎結した地下深く消毒薬を十分撒布して埋葬する。これがまた大変な仕事だ
った。翌日行くと昨日迄穴掘りを手伝ってくれた部落民が、今日は自分が土深く埋められる運命にあった。
一度その部落にペストが発生すると、それは全く死の町と化した。いつ死の運命がやって来るか恐怖のおののきに部落全体が覆れるのである。恐怖のあまり夜陰に乗じて部落民が部落から逃げて他の部落にもぐり込むと、そこで又発生し又大防疫が始まる。ペスト防疫の後手位に被害甚大なものはなかった。
政府は新京にペストが発生するや、新京に近い前部旗、通藻等のペスト地帯のペスト防疫強化を行政と防疫の一体化をはかりその防疫の完璧を期するため、これら県の行政責任者に医師を副県長として配属した。
渡辺泰臣、波多久氏等はこの任にあたり、遂に新京周辺よりペストを追放した。又前部旗ペスト調査所長加藤政司氏、通療所長の春日忠善氏等のペスト患者の治療研究、又予防接種の研究等世界的な業績が成果をあげたのであった。
満洲国の特徴は研究、調査、行政、実践が全く一体化して、目前の重要施策に若い情熱と精根を傾尽して止むことを知らなかったことである。
そこには今日の日本の研究機関や官僚の封建的な縄張り争いや徒弟制や、ことなかれ主義の存在する余地はなかったのであり、それ程我々のやらねはならぬことが目前に押しかぶきって居たのである。
満洲国衛生行政の特徴は阿片断禁政策である。阿片吸咽は中国の長い弊風であった。
これを絶滅しようとしたのが満洲国の阿片断禁政策であり、阿片吸引の悪習の原因は疾病である。病気の苦痛を治すために阿片を用は民生部大臣の許可で全満各地での医師資格を与えられることになった。
今日の日本の医師の居ない村や町が毎日のように新聞やニュいそれが阿片中毒者を次々と作ることになったので、先づ阿片吸引の因習を根絶するには満洲国民を近代的医環のもとに疾病から救うことであり、阿片を政府の管理下に置き、阿片吸引を即時断禁でなく、漸減し、一方中毒者の治簾のため康生院を作り入院せしめ、中毒症状をなくす方法をとった。
漸減方法として阿片吸引者は登録させ、吸引する場所を政府が作り管煙所として政府の管理下に置いて次第に量を減らして行く方針をとった。
この間の阿片による収入は総て疾病の治療予防、中毒症状の治癒施設に当て、他の如何なる政府の財源にもあてないと云う政府方針を樹てた。四期の藤原さんは、この阿片断禁政策の遂行に偉大な業績をのこした。
又当時阿片の益金を政府が一般財源に流用しょぅとして敢然と斗い遂に時の民生部土肥次長と対立し、土肥次長は辞めて満鉄に帰り藤原さんは日本留学ということになったはげしい斗いであったが、当時若い衛生行政官の無我純な情熱と実行力は今日の日本の厚生省あたりの役人に薬にしてのませたいものである。この阿片断禁政策は満洲国の各省各県に近代的な病院と設備を急テンポで設立させた。
然し悩みの種は医師の不足であった。
このことは特に切実な問題であった。このために医科大学、開拓医学院等を設置し医師の養成を行ったが急激な医師の要求には応じ切れず、毎年日本から募集したが、不便な県立病院や開拓地の診療所等はいくら高給を出しでも今日の日本の僻地と同じように誰も来るものがなかった。折角来ても、その不便さに耐えられず帰ってしまう人もあった。
私が東安省の保健科長をやって居る時、開拓地の医師の不在は重要な問題となり、その対策として省長権限で許可出来る限地医師制度に着眼、医損関係機関に一定年限勤務した薬剤師、衛検査技師、歯科医師等の医療従事者に対し、現地医師(即ち地域と期間を規定し医師たる資格を与え医師として医旗を行う)を希望するものを満洲国内は勿論、日本全国より募集、民族は問わない、限地医師養成所を作り、そこで2ケ年間教育した上で限地医師の資格を与え必要地域に配属することにした。
この案は当時の省長太田勇三郎特に省次長田中孫平氏の賛成を得て直ちに実行に移され、講師は省立病院は勿論、特に日本軍から目名の講師之等は何れも日本の大学の助教授講師で召集された軍医を充てゝもらった。民生安定のために軍富民一体の実践であった。養成所開設3年目からは次々と優秀な人材が配属され県立病院、開拓地診療所は地域住民の医療に活発な活動を始めた。この試みの成功は浜江省やその他の省に於ても実施され養成所卒業生は民生部大臣の可で全満各地での医師資格を与えられることになった。
今日の日本の医師の居ない村や町が毎日のように新聞やニュースに取りあげられ問題になっているが、こう云う方法をとることも一つの対策であらう。
私は昭和二十八年四月迄中共に抑留されたが、中共政府も全面的にこの方法を採用、然も極めて組織的に合理的にやって居た。
之等の医師は医助と云う資格で中共軍政府機関、工場、地方病院に配属され、診漂従事、工場等の保健管理等に従事し、優秀なるものは医科大学に入学させ正規な医学課定を修めさせると云う全く社会主義制度の妙味を如何なく発揮、無医地区の悩みを解消して居た。昭和四十一年ソ連を視察した時も、中共と全く同じ医助制度を設けて居ることを知って、国民の切実な必要は必らず適切な方法が開かれて行くものだ。
之を妨害するものは、日本のようなところでは国民の苦しみには目もくれず、自己の地位や欲望温存確保しようとする医師会やその他の政治ボス、幌偶役人であり、少くとも国民の生命を守る医療は自由主義国家群に於ても社会主義的制度をくみ入れることが絶対に必要と考える。
満洲国は保健、体育、医療は組織としても一体化され政府所管もその通りであった。
このことは医療あって保健なしの日本のバラバラ行政と全く思想的に異って居たのである。国民の生命を守り健康を増進すると云う一つの目標に向って総ての施策が考えられて居た。
私が通化省保健科に居る時、雪に覆れた通化の町や山々をみて、之はスキー場として新京奉天からも近いし、国民の体育練成の場として、又満洲国に新しいスポーツの導入を行う必要を痛感し、之は先づ適地であるかどうか専門家の意見をきくべきだと思い民生部の体育課に行ったら、当時満炭に居た曽って日本代表としてガルミワシュの世界オリンピックに出場した牧田さんを紹介してくれた。
牧田さんは早速通化に来てくれて場所も選定、今迄吉林の北山等規模で小さく雪の少い所と違いコースはいくらでもとれ雄大な山スキーを楽しめる適地であると保証してくれた。しかし正式なスキー場とし今後発展するためには少くとも50米程度のシャンチェを設備しなければならぬというのでこれも場所を設定設計してもらいフユンテンキンチェを作った。
その年の冬はいち早く関東軍の冬季演習が例年北浦で行われていたのを通化のスキー場を中心として壮大な山岳スキーを展開した。
通化事件の舞台となった竜泉ホテルは全満から集るスキー客で振った。スキー場が出来た最初の年だーったと思うが大同学院の同期の財前君が遠く熟河からスキーをかついで漂然と我が家に現れ、一週間滞在スキーを堪能して行ったが、彼も物好な男だなあと思ったが、なんとも嬉しかった。渾江の清流と白頭山につらなる通化の山々景色は全く素晴しかった。
白銀のしぶきを立てながら清流に囲まれた通化の街々を峨々とそびえる岩肌がまるで南画そのものの山麓をすべり抜く壮快さは一生忘れることは出来ない。
東辺道開発、匪賊伐に明け暮れて居たあの頃、どうしてこんなこと
に省で金を出してくれたのか今考えても不思議に思えるが、その時の省次長は後に浜江省の次長で行った中島さんだった。
私の通化は楽しい又悲しい運命の地となった。昭和二十年四月東安省から通化省勤務を命せられ、通化で敗戦、通化事件では柳河副県天野さん、通化副県長河成さん等がこのスキー場のシャ
チェの見える河原で従容と死んで行ったのである。
又通化事件で死亡した幾多の同胞がみな凍結した渾江に穴を掘りそこに棄てられたのである。
美しい渾江の流れが同胞の血で染められ、美しい河原は民衆裁判処刑の場となって行った。
その渾江の流れも翌春は何事もなかったように美しい流れに変り、衝々も苦しの娠いに帰って行た。只、スキー場のシャチェ丈は略奪されずに骸骨の如くその蛇腹をみせて居るのが遠く町からのぞまれ何んともささびしかった。
私は之から抑留八年の生活が始まり私の長女もこの通化の地に永遠に眠って行ったのである。あ 
れから二十五年、通化は私達にとっては悲しいが又楽しかった健全の地として思い出されてならないのである。
あ と が き
他国の花をあこがれるならば、私達はまずその美しい花が如何にして瞬かれ、如何にして育てられつゝあるかを学ぶことが必要と思う。
他国の花を、私達が愛する祖国の土に育てようとするならば私達は先づこの花が祖国の土地に育つかどうかをよく考えることが必要だらう。
私は満洲国官吏として八年、新中国の八年、十六年の大陸の生活から今、一日も忘れることの出来なかった愛する祖国の土を踏みほどばしろあの祖国への愛情にかきだてられて居る。
敗戦の傷痕末だいへざる祖国の姿を見、このヂレンマが徒らに他国の花をあこがれつつある姿を見て考へざるを得ない。
私は曽って王道楽土の建設を志し大陸に渡った友人、又祖国の再建に志しある人達、又八年間私の留居家族に厚い援助を与へられた人達、終戦後散って行った私の愛する三人の娘にこの文をささげたいと思ふ。
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