Monday, May 20, 2013

通化事件

「通化」
満州と通化。通化は満州にいた人達にはあまりにも思い出の多いところになった。
通化はあまりにも多くの日本人が犠牲になって行った。
日露戦争以来通化はいつも日本軍の拠点となった。
満州国が出来てからも通化は最后迄反満抗日軍の拠点となりの拠点となり日満軍警の血をすゝって行った。
朝鮮と鴨緑江で界され長日山脈の懐にいだかかれた通化の町は山あり用あり満州には診し
い日本の風光とよく似た静かな町だった。
豊富な地下資源は、「光は通化より」と満洲工業建設に偉大な希望と将来を与へて居た。
長白山脈の樹海のはてに白雪を頂きそびへたつ白頭山はあの実々たる大陸には実に崇高そ
のものゝ姿であった。
昭和二十年大東亜戦争の悲劇的結末は再び通化の地に多数の日本人の屍をさらした。
昭和二十年形勢不利と見た関東軍は大陸の最后の拠点として通化を選んだ。
通化には一拠に数万の日本人避難民と日本軍が集結した。
この狭少な山嶽地帯に幾万と集った日本人は一度ソ聯軍と中共軍が侵入するや全く封じ込
められて了った。
遂に通化暴動事件が勃発した。
そして無数の日本人が死んで行った。、
火事場から漬物石を運ぶ
私は終戦の年の四月ソ覇と満洲国の国境省である東安省から通化省に転勤を命じられた。
任務は関東軍の通化拠点計画に基づく多数の日本人及原住民の保健衛生をやることだった。
着任早々省公署では関東軍、政府、各機関が毎日の様に防衛計画設定の会議がもたれ、こ
れにひっぼり出され夜を徹して計画し論議した。
一番困難な問題は人及馬の受入体制だった。あの山嶽ばかりの通化地区に軍並に全満から
の疎開者を収容することはどう考へても無理なことだった。
人に対しては先づ収容すべき住宅がない。食糧はどうするか。馬は馬糧をどうするか。
軍のある参謀がトウモロコシの下葉を一枚一枚とって食べさせようと大真面目で提案した。
通化地区以外からの物資の供給は全く見込みなかった。
夫々の担当部門の出す防衛計画は全く通化の現状からするなら、正に天文学的数字の累積
であった。
お互に提案したものゝ、顔を見合せお互にあきれ返るといふ状態だった。
私はある時会議の席上で、中央から来た総務庁の人達に、 本当にやるつもりなのかと質問
した。全く私達はノボセ上って居た。心の平生を失って居た。
又従来の形式主義が、このドタン場になっても抜け切らず、意味のない計画と論議にあけ
くれて居た。
敗戦のあわてかたは、いづこの地区でも同じことだったらう。
火事でうろたへきった人が、こともあらうに家の中から役にも立たぬ漬物石を運び出したと云ふ話しがあるが、考へて見ると正にこれと軌を同じうする.笑へぬ悲劇を演じたのであった。
然し当時の私達は全く真剣にやって居た。
関東軍の敗走
ソ職が参戦し、満州国の各国境から非常な速度で進入して来た。
首都新京もあやうくなって来た。
もうそのころは通化防衛計画に参加した関東軍、満州国政府中央関係者も、もういつのまにか姿を通化から消して居た。
全満からの疎開者は通化へ通化へと密集して来た。省や県はこの受け入れに寧日もなかった。
反対に日本軍はものすごい早さで四散し始めた。この年の七月敗戦間近に関東軍は全満の残った在郷軍人に召集令をかけた。
さなきだに打ち続く召集で男手の少くなって居た国境付近や・避遠地区の開拓団は全く女護島のような状態に置かれた。都市に於ても同様だった。
こうした召集兵は通化に沢山集って居た。
軍は愈々のドタン場になってから部隊の解散を命じた。この命令も極めて徹底しなかった。
ある部隊はそのまゝで居るものもあり、ある部隊は解散すると云ふ全く支離滅裂の有様であった。
こうして召集された老兵達はらりぢりばらばらに、あるものは歩いて、あるものはやっと列車の屋根にはひ上り、妻子の安否を気づかいながら四散して行った。
軍の将校其他の幹部や家族はトラックに食糧や被服を満載して、夜も昼もひさも切らずに、黄塵をけだてて朝鮮に向けて逃走して行った。通化市の周辺では既に暴徒集団が略奪を始めた。
逃走する日本軍の倉庫をやく炎は夜空をこがし、爆発する弾薬の音は天と地をゆるがし、暴徒の喚声は遠くに近くに響きわたり、通化は不安と恐怖のるつぼと化して行った。
こうした中に取り残されたのは部隊から置き去りを食った召集兵と、地万民だった。
只一つ、若い柴田軍医大尉のひきいる野戦病院が多数の傷病兵と地方民疎開者の病者を収
容、翌年二月通化事件に到る迄通化日本人の救済にあたった。
新京から南下した陸軍病院が動けぬ傷病兵を柴田大尉にあづげ、さっさと引き上げて了ったのた。
柴田大尉やその他のこの病院の幹部と、敗戦第一年の正月を私の家により集って、語りあかしたことは、私の終生の思ひ出である。
日本民族試練の新しい世紀のカレンダーはめくられたのだ。
私達は語りあかした。
柴田大尉は通化事件で捕はれ、遂に朝鮮県境の臨江の獄舎で消えて行った。
然し、この若い無我至純な大尉の魂は永遠に消えることはないだらう。
開拓団に女子供丈げを残し、地方日本人を全く省ることなく放置して逃げ去った日本軍の中にもこうした崇高な人達も居ったのだ。
自主性を失った、鋳型教育に徹した、自らの任務に対する反省心を失ひ去った軍幹部、総ては正に救ふべからざる動脈硬化症の状態にあったのだ。
日に新たに、強靭な信念のもとに、日本民族の危機の中に闘ひ抜いた、柴田大尉の精神こそは永遠に消えることなく吾々の魂をゆりうこかすことだらう。
自己を真に愛する者は、真に隣人も愛し得る。大尉の下にあった一部の人達は後、中共軍にあって、身を擬して中共軍の傷兵の治損にあたり、国境を越えた隣人愛は中共軍の感謝のまととなった。
ソ轍の侵攻は新京を愈々危くさせつつあった。中央から来た責任者はボツボツ姿を消して行
った。軍と地方との連絡も段々緊密をかいて行き、最后には全く別々の勝手な行動をとる様になって了った。何万と集結された日本軍は次々に姿を消して行った。
通化の町はこれらの逃走する軍のトラックでヒキも切らなかった。
こうした状況の中に私達は八・一五をむかへた。
丁度正午省次長室のラヂオの前に省の幹部が集まり悲壮な敗戦の詔勅をきいだ。
雑音が入り、よくききとれなかったあのラヂヲに耳をすりつけ涙にむせびながら私達はきいた。
次長は声を立ててないて居た。
総ては終ったのだ。私達は今迄のことも、これから先のことも考る力もなければ又考へようともしなかった。
ウツロな孤独な全くだとへようもない、風に吹きさらされた紙きれの様に省公署の玄関からチリヂリに帰って行った。
然し翌日爆ぜずして皆登庁した。私達は夫々何をなすべきかを考へて居た。
私は、おぼろげながら、私の八年は満州国へ捧げた八年である。私達が満洲の人達と作りあげたあらゆるものを次の時代のこの人達に引き継ぐべきだと決心した。
私は保健科の所管する書類や機械薬品等の整理を皆なと一緒に始めた。そして科内の中国人の責任者を指定し立会ひで引きつきを始めた。各科も同じようなことが始められて居た。
途中で姿を消したのは特務科長だけだった。
満州国皇帝が帝位を退くと共に省公害前庭に全員集合解散式を行った。皇帝の写真は焼かれ、全職員の起立黙祷のもとに煙と共に消えて行った。
私達日本人職員はそれからは登庁せずに夫々家に止まり、愈々異国に於げろ敗戦国民としての第一歩が始まった。
通化の町は全満各地から集まった数万の日本人避難民と本部に置き去りを喰はされた残留の兵隊ではち切れるような状態だった。畳一畳が大人一人の割合で各家庭宿舎割りをさせられ、玄関、廊下、押入総てが宿舎となって行った。
通化には政府関係の高宮及が家族が多数避難して来て居た.
通化は間もなくソ輔車と八路軍の手中に収められた。
日本人居留民会は間もなく若い連中に置きかへられ日本人解放聯盟となった。
間もなく政府の日本人及び中国人高官は拉招され始め、全満から日本人引率責任者として来た各県副県長がつれて行かれた。
民間の曽っての有力者の一部もつれて行かれた。これらつれて行かれた人達は二度と戻って来なかった。同時これらの責任者の携帯した金も没収されて了った。
責任者を失ひ、金を失った避難民は次々に路頭に迷って行った。
あの狭い土地に数万の日本人が色々働く道を探し求めても結局は同類あひはむの状態にな
らざるを得なかった。
日がたつと共に私達はどうしても通化から抜け出さねはならぬ。抜け出さねは共倒れになるのみだと誰しも考へるようになった。
中国人の話しによるともう南満は引き揚げが始まったそうだ。この噂は次々にひろがり私達の心を愈々かきたゝせた。
密集した生活、栄養失調と不衛生な生活、不安と狂操の生活はやがて病魔の温床となって行った。開拓団の集合宿舎には嬢疹チフスの大流行が始まった。そして全市民に蔓延して行った。こうした悲惨な状況の下についに最悪の事態が勃発した。
それは翌年二十一年の二月三日の所謂二・三暴動事件である。通化事件として知らぬ人もないだらう。
全く無謀な暴挙であった。然し止む得ない通化日本人の宿命であったのだらう。
あの狭少な地域に数万の人間が封ぢ込められ飢餓と病魔と生命と精神の不安、狂操の高まりはついに頂点に達し爆発して了ったのだ。
二月三日夜十時を期して通化の日本人は八路軍及政府てんふくに武装蜂起をしたのだが既に事前に発覚され、交戦いくぱくもなく惨胆たる敗北に終り、翌朝十一時頃迄女子と小学生を除く日本人全部が拘束され、倉庫、防空壕、監獄にプチ込まれて了った。
私は四日朝家の前に吊ってあった物乾のほそびさでしぼり上げられつれて行かれた。
竜泉ホテルの裏の谷間は無数の死体でおはわれていたが、この死体の上をはひ上がらせられホテルの前につれて行かれた。
監   獄
一日中町を引っぼりまわされた私達はいづれ殺されるものと覚悟をきめて居たが、夕闇がせまる頃私達は通化県公署内にある監獄にプチ込まれた。直ぐは殺さぬらしい。
監獄の部屋は、……     未完

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