Friday, November 17, 2023

暁の銃声
 大晦日を祝う高脚踊のにぎわいもひとしきりやんで、山々には八路軍の警備するかがり火が、
狐火の様に明滅している。ここは通化市竜泉街の、高台に並んだ日本人町には、夜警の拍子木の 音がとぎれとぎれに響き、やがて夜は次第にふけていった。
 終戦後初めての旧暦年越し祝いに一杯のパイチュウ(支那焼酎)をのみ、すべての憂さを忘れて四畳半の部屋に寝ていた私は、「田口さん、ちょっと起きてください」
 時ならぬ女の声にふと呼び起された。と同時に、柱時計の鈍い音が二時を打った。
呼び声の主は、玄関の間に住む山口泰三さんの妻、君江さんである。
戦後、地方から着のみ着のままで
 

Wednesday, May 22, 2013

伊藤親分と三九

東安における
伊藤親分と三九
昭和十七年頃のことだ。私は初めて伊藤親分に会った。そこは名古屋大学に於てである。
親分が満州国植村保健司長の命を受けて名古屋大学医学部にやってきた。
加藤三九朗を満州国に割愛するためにきたのだろう。
三九はその時大学内に居なかったので、大先生方が伊藤親分を歓迎する宴をある料亭で開いた。
そして三九の出席を待っていた。三九が行ってみるとそのとき早川先生もその場に居られた。早川先生は話題の広い人である。
その場には名古屋医学部長田村教授、院長勝沼内科教授、斉藤外科教授がおられた。これ等の大先生に対して一人の若い人で丸坊主の協和服を着た男が話をしている。
東北弁まる出しで満州建国の理想と現実を堂々とやっている。
三九はその当時名大の大先生にはちっとも頭が上がらないのでだまって聞いていた。
伊藤親分は、その時充分親分の風格を備えていた。
堂々と建国の理想と実際、東安省の実情を語って先生方を感銘させ、東安における医師養生等について大いに説き先生方もこれに賛成し、名大としてできるだけのことをすると約束された。
もうその当時は名大もあらゆる意味で人手不足であって、満州の果てに人を送るなんてことは不可能なことであった。
しかし、親分の熱意に動かされてそんな結果になったのであろう。
その当時満州大同学院とか満州建国大学には、高い理想の青年が日満鮮ソを通じて雲の如くっていた。
伊藤親分もその中でもまれた、のみならず中でも一頭地を抜いた存在となったのであろう。
その当時の親分は年令三十位.東北大学を出て山形内科に入ったらしいが、直ちに渡満、
大同学院に入学、多数の同志盟友を得て、満州国官吏となり、東安省の僻地に派遣されたのでる。爾来、彼は僻地関沢を天業とし内地に帰ってからも僻地、離れ島、農村医療等に全生命を投げこんでしまった。
三九は一目でこの後輩の親分にほれて渡満することになった。
其の問女房の家庭的にも学校でも私の渡満を反対する人が多くて因ったが、若さのあまり決行してしまった。
東安における生活は、私の女房のいうところによると、一代で一番愉快な生活であったという。彼女にはほんとうにたくさんの友達ができ、今に於いても命を友にした間柄としてうれしく交際している人が多い。女房を私の我がままから父母、子供とはなして一人東安に伴ったことは、私の一生の不覚であり、一生の成功であった。もし彼で彼女を死なせたならば、私は故郷に帰れなかったし、恐らく中国で骨を埋める結果となったであろう。彼女が今思い出して満州東安が一生で一番面かったというのは私の成功であった。
伊藤親分は当時斗酒なお辞せずの豪傑であった。
しかし酒に乱れることなく酒の上で人々を激励し、人々を慰め、自分の理想を語り、同志をつくっていった。彼は人を捨てるということは決してなかった。
親分の理想は真に五族協和の満州国の建国であり、日本民族の生きる地の国づくりであった。
私はそれに共鳴した。石原完蘭、中深加藤完治先生等の意見も同様であり、中国人、朝鮮人をえての大同会 (仮名私は名前を忘れた)の心からの団結があった。
他国侵略、異民族統治なんて言葉はあったが、それは一部の日本人の思い上った考えであって理想に燃えた人々は、そういうことのないぽんとうの五族協和の国をつくり、理想の国家をつくりたい志望に燃えていた。
親分の仕事は多かった。医者教育の指導もあり、人民の健康保全もあり、阿片禁止なんかについてはほんとうに一生懸命であった。
私共も親分と同心で、密山炭境の増産に協力し労働者の保全のため全力をつくしたが、今になってみれば結局それは侵略の手先に使われたことがあとでよくわかった。
炭坑労働者は各県から強制的に集められ、名誉の名のもとに強制労働に従われ、その健康も養も全くなっていなかった。
多数の病死者を出し労力は低下した。これについて東安省立医院は伊藤課長のもとに全力をぶって病疫、救護にあたったが殆んど効果をみとめることができなかった。
新立屯開択団の農地造成、水路構築を我々は天業翼賛と信じて奮斗努力したが、これも侵略とばれるしかないやり方であった。
労働者は日本の徴兵と同じく強制的徴収であり、強制労働に服せられたのである。
その健康を守ることが我等の使命であったが、全く無力にひとしかった。中国農民、朝鮮農民は収穫物の殆んどを供出の美名のもとにとりあげられ、日本人だけが米の配給を受けていた。その他の民族は米はとりあげられて包米、高梁の配給を受けていたにすぎなかった。
土地も土着農民はとりあげられて、日本開拓農民に与えられた。一定の規格のもとに日本人はその所有をみとめられたが、朝鮮、中国人にはその権利もなかった。それは五族協和でなく全くの侵略である。
日本の官吏、警官は絶大の権力をもち、軍隊はオールマイティである。
私達もその中にあって、日本人としてほこりと権利を大いに主張したが、今から考えると全く汗顔のいたりである。
医学院第三回生の東安医学院の卒業生を送り出すころ、戦争は益々激烈となり、敗戦のいろは益々こかった。
日本人全部は一億総玉砕、天皇を守れ、国体護持、奉還精神の理想に燃え、特攻精神で戦っていた。
第四回生募集の頃となって伊藤課長は東安を去って通化省の保健課長となった。
私達はさびしかった。親分を失ったのである。我々の理想も埋没しかけている。東安を去る前にの頃親分はよく言った。「日本にもパドリオが出来る」と、パドリオとは伊大利がムッゾリニーに叛いて連合軍に降伏したときの真相である。
親分は日本の降伏を予知していたのであろう。しかし、その頃は敗戦とか降伏とかいう言葉は禁句であった。
親分はその後通化でいろいろ苦労されたらしいが、終戦後共産軍の医官となり、例の如く僻地離れ島精神を発揮して中共軍のために中国の平和のために働いた。
そして共産軍最高の名誉である労働模範の表彰を受けた由である。
これは中国労働者でも仲々受けられない名誉称号であるが、日本人としては特に珍らしいものと思われる。
彼の真面目な性格、患者に対する無限の愛或は自己犠牲の強固な精神等がその結果となったものと思う。
親分が日本に帰ってから、時々私は彼と会ったがいつも彼は洋々たる風ほうで悠容せまらず、中国の大人の風格がある。こせこせする自分がはずかしい。
三九朗が相談したとき、悠々自適をすすめた彼の真撃の態度は私共夫婦にはうれしかった。
その後一年私もようやく悠々自適の何ものたるかが少しわかりかけてありがたく思っている。
悠々自適とは、自分の体力知力の半分以下の能力でなるべく人相手のことをやめて自然に親しむものではないだろうか。
昭和二十年八月頃、三九朗は必勝の信念がぐらついていた杉本医官と争ったことがある。
三九朗白く
「こんなことでは日本は負けだ」
杉本白く、
「絶対に負けません」
「負けると思うたら負けです」三九朗は黙した。
もう日本はだめだと思った。医学院第四回生の募集は、新京、奉天、京城等の遠隔の地で行われ、杉本医官は奉天での入学試険を終ると通化省の伊藤親分をたずねた。
昭和二十年八月初めのことである。
八月九日ソ連は日本に宣戦し、国境をおかして満州国領に侵入した。直ちに東安に帰った。東安はその日上を下への大騒ぎであったが、日本人全部が「引き揚げ」るというまことに妙な今まで考えたことのない結果となった。日本東安軍は殆んど南下して留守である。その隊長は安山県長田坂閣下と東安市長倉持氏をよんで、「勝手にせよ。軍は住民を守る力はないと宣言した。
県長、市長は直ちに協議して、東安日本人全部引き揚げの命令を出した。
東安省立病院は約百人に近い患者を入院させている。
引き揚げとはどういうことかわからなかった。
三九院長が田坂県長と話し、その後山崎事務官が省参事官とうち合せて患者だけは汽車で送る。
その他の者は全部歩いて戦かい且つ退くという命令を受けた。その日の夕方、即ち九日夜暗くて (電気は停電で、電灯もなければラジオも聞こえず) 人々の顔が殆んどわからなくなった頃、附近の家屋に火をつけてあかあかと東安が燃えあがった。その時杉本医官が最後の牡丹江発の汽車で東安に帰ってきた。
よく帰ってきた。杉本医官が居らぬと病院中は火の消えた如く悲観的であった。
伊藤親分から杉本医官が携えてきた文書がふるっている。
この文書を見てみんなが元気に振いたった。
それは、伊藤親分からの命令書であった。
日本文で、タイプライターで打った堂々たるものである。
白く、東安省立病院は全員あげて直ちに通化にいたり、通化に於いて省立病院を開設すすべし日本軍は通化において通化作戦を行い永久に通化を守り、日本の独立を期すという趣旨である。
その他こまかい命令が書いてあったか.三九はこれを読んで本当に喜んだ。
今ここで東安を出ていったところでこれからどこに行っていいのか一全く見当はつかない。
ちりちりばらばらはなって、うえと寒さで全員野たれ死にするより仕方がない。困ったことだ。
この際、省立病院は赤十字族を掲げて敵の手におり、患者の生命を完ふすべきだ等ともつくづく考えこんでいたところである。
そこに省立病院会貫通化にいたり病院を開設すべしという命令だ。
誰の命令でもない。伊藤課長の独断である。
他にこんな命令の書ける人は、その当時の満州には一人もいない。
通化省長にもその権限はない。新京の幹部連中とはもう交信もなく東安のことまで考えている人はいない状態である。
伊藤課長は数日前敗戦を予見して東安省立病院を救おうとしたのだ。そしてこんな命令を堂々と書いた。
タイプライターでもっともらしい形までつけた。しかしその時刻に於いては伊藤課長に東安省立病院に命令を下す権限はないのである。しかし、もし東安省立病院長が先見のある男であり、自分の命をかけてやれば、それはできたかも知れん。
だがしかし、三九は その書面をみたとき心に大きな勇気と安堵を覚えた。
すでに暗がりの中に並んで停車場に出発する用意の出来ている看護婦達の語れに向って最後の演説をした。
「諸君、諸君はこれからいろいろの困難に遭遇するであろう。しかし、その時いつでも笑ってその困難に耐えてくれ。これから飢えと寒さで生きることもむずかしくなるだろう。敵よりも恐ろしいものが待っている。しかし、出来れば諸君は通化にいって省立病院をつくって待っていてくれ。私共も出れば通化に行って再び諸君と会えるだろう。伊藤課長から今この手紙がきた。諸君の行先はきまた。諸君は道化にいってくれ。さようなら。元気でいけ。」
しかし、その後の運命は全く予期に反し、通化に出ることは誰もできなかった。
それでも出発に際し目的地の与えられたことは愉快なことであった。
杉本医官白く、「もう五六日前にこの手練がきたら何とかなったかもしれんが、今ではもう遅いわねえ。」
その通りであった。しかしその手紙は我々を勇気づけるものであったことを、今更ここで親分に感謝したい。
(第二十七号 四五・二)加藤三九朗

Tuesday, May 21, 2013

満洲国衛生行政の展望

満洲国衛生行政の展望
伊 藤 裕一
ま え が さ
招和十二年仙台の大学を出ると直ぐ満洲に渡り今年の四月末中共から引揚げるまで十六年の歳月を送った満洲は、私にとっては永遠に忘れることの出来ない土地となった。
満洲国の衛生行政官としての八年、中共治下にあった所謂人民の医生としての八年、この間にあって私は色々考へさせられ又教へられた。
今、十六年の大陸の生活から一日も忘れることの出来なかった祖国の土を踏み、祖国への愛情と信頼は祖国の正しい再建への熱情をかきたてゝ居る。
世界は今や総ゆる意味に於て、完全に二つの陣営に分れ、しかも恐るべく尖鋭化した状態のもとにある。
この二大陣営の接触点は正に祖国日本であり二大潮流は怒涛の如くおしよせ渦巻き乱れて居る。国民はこの渦中にあって祖国への愛情と民族の誇りを忘れつゝある。
私達はいたづらに他国の花をあこがれてはならない。
私達の貧しい醜い花は他国の花をはめたゝへあこがれることのみで美しい花に育ちはしない。
私達は心を合せ自ら努力し貧しい醜い花を美しい豊かな花に育て上げなければならぬのだ。
自らの力を信じ、これをはぐくみ育てんと努力するとき他国の花も私達の血ともなり肉ともなるのだ。
偉大な発展をとげつゝある新中国を学ほうとするなら、私達は先づ之を消化しうる力を持たなければならない。
先づ栄養源としての価値分析をしなければならない。
いかなる良薬であっても夫々の疾患、年令、程度等に応じて服薬しなかったら効かぬのみか、却ってその人の生命を奪ふことにもならう。

五族協和、王道楽土を実現し、アヂヤの平和ひいては世界の平和に寄与せんとした満洲国はその重要施策として国民の疾病予防治癒対策の完璧を期して諸施策が実行された。
国民の最も恐れて居たペスト、コレラ、天然痘等の急性伝染病の撲滅のため防疫施設と防疫組織の整備を実施した。
私は学生の時夏休を利用し満洲をまわって来ようと決心し、独乙の解剖学書ラーベルを古本屋に売り払って旅費を作り独り議然と大連に向った。
新京で南嶺の大同学院を訪ね四期の藤原、加藤、須藤先輩に会い満洲国の大理想と衛生対策の重要性とその意義を吹き込まれ、卒業したら満洲に人らうと決心した。
昭和十二年大同学院を出て民生部保健司に配属され、防疫科勤務にされた。川上六馬先生が霞科長で早速ペスト防疫の応援に派遣され、前部旗のペスト調査所で所長の加藤政司先輩の指導をうけ、如何にペスト防疫業務の烈しいものであるかを知らされた。
零下三十度の厳寒に我々防疫員は頭から足の先まですっぽりと白装束で身をかため、ゴム長靴に除虫菊の粉末を一ばい入れてまき、馬にのって発生地部落の検診を毎日やらなければならなかった。一軒一軒くまなくまわり問診、検温、触診(版下、鼠撲部等の淋巴腺)すること、予防接種をやること、死亡者は疎結した地下深く消毒薬を十分撒布して埋葬する。これがまた大変な仕事だ
った。翌日行くと昨日迄穴掘りを手伝ってくれた部落民が、今日は自分が土深く埋められる運命にあった。
一度その部落にペストが発生すると、それは全く死の町と化した。いつ死の運命がやって来るか恐怖のおののきに部落全体が覆れるのである。恐怖のあまり夜陰に乗じて部落民が部落から逃げて他の部落にもぐり込むと、そこで又発生し又大防疫が始まる。ペスト防疫の後手位に被害甚大なものはなかった。
政府は新京にペストが発生するや、新京に近い前部旗、通藻等のペスト地帯のペスト防疫強化を行政と防疫の一体化をはかりその防疫の完璧を期するため、これら県の行政責任者に医師を副県長として配属した。
渡辺泰臣、波多久氏等はこの任にあたり、遂に新京周辺よりペストを追放した。又前部旗ペスト調査所長加藤政司氏、通療所長の春日忠善氏等のペスト患者の治療研究、又予防接種の研究等世界的な業績が成果をあげたのであった。
満洲国の特徴は研究、調査、行政、実践が全く一体化して、目前の重要施策に若い情熱と精根を傾尽して止むことを知らなかったことである。
そこには今日の日本の研究機関や官僚の封建的な縄張り争いや徒弟制や、ことなかれ主義の存在する余地はなかったのであり、それ程我々のやらねはならぬことが目前に押しかぶきって居たのである。
満洲国衛生行政の特徴は阿片断禁政策である。阿片吸咽は中国の長い弊風であった。
これを絶滅しようとしたのが満洲国の阿片断禁政策であり、阿片吸引の悪習の原因は疾病である。病気の苦痛を治すために阿片を用は民生部大臣の許可で全満各地での医師資格を与えられることになった。
今日の日本の医師の居ない村や町が毎日のように新聞やニュいそれが阿片中毒者を次々と作ることになったので、先づ阿片吸引の因習を根絶するには満洲国民を近代的医環のもとに疾病から救うことであり、阿片を政府の管理下に置き、阿片吸引を即時断禁でなく、漸減し、一方中毒者の治簾のため康生院を作り入院せしめ、中毒症状をなくす方法をとった。
漸減方法として阿片吸引者は登録させ、吸引する場所を政府が作り管煙所として政府の管理下に置いて次第に量を減らして行く方針をとった。
この間の阿片による収入は総て疾病の治療予防、中毒症状の治癒施設に当て、他の如何なる政府の財源にもあてないと云う政府方針を樹てた。四期の藤原さんは、この阿片断禁政策の遂行に偉大な業績をのこした。
又当時阿片の益金を政府が一般財源に流用しょぅとして敢然と斗い遂に時の民生部土肥次長と対立し、土肥次長は辞めて満鉄に帰り藤原さんは日本留学ということになったはげしい斗いであったが、当時若い衛生行政官の無我純な情熱と実行力は今日の日本の厚生省あたりの役人に薬にしてのませたいものである。この阿片断禁政策は満洲国の各省各県に近代的な病院と設備を急テンポで設立させた。
然し悩みの種は医師の不足であった。
このことは特に切実な問題であった。このために医科大学、開拓医学院等を設置し医師の養成を行ったが急激な医師の要求には応じ切れず、毎年日本から募集したが、不便な県立病院や開拓地の診療所等はいくら高給を出しでも今日の日本の僻地と同じように誰も来るものがなかった。折角来ても、その不便さに耐えられず帰ってしまう人もあった。
私が東安省の保健科長をやって居る時、開拓地の医師の不在は重要な問題となり、その対策として省長権限で許可出来る限地医師制度に着眼、医損関係機関に一定年限勤務した薬剤師、衛検査技師、歯科医師等の医療従事者に対し、現地医師(即ち地域と期間を規定し医師たる資格を与え医師として医旗を行う)を希望するものを満洲国内は勿論、日本全国より募集、民族は問わない、限地医師養成所を作り、そこで2ケ年間教育した上で限地医師の資格を与え必要地域に配属することにした。
この案は当時の省長太田勇三郎特に省次長田中孫平氏の賛成を得て直ちに実行に移され、講師は省立病院は勿論、特に日本軍から目名の講師之等は何れも日本の大学の助教授講師で召集された軍医を充てゝもらった。民生安定のために軍富民一体の実践であった。養成所開設3年目からは次々と優秀な人材が配属され県立病院、開拓地診療所は地域住民の医療に活発な活動を始めた。この試みの成功は浜江省やその他の省に於ても実施され養成所卒業生は民生部大臣の可で全満各地での医師資格を与えられることになった。
今日の日本の医師の居ない村や町が毎日のように新聞やニュースに取りあげられ問題になっているが、こう云う方法をとることも一つの対策であらう。
私は昭和二十八年四月迄中共に抑留されたが、中共政府も全面的にこの方法を採用、然も極めて組織的に合理的にやって居た。
之等の医師は医助と云う資格で中共軍政府機関、工場、地方病院に配属され、診漂従事、工場等の保健管理等に従事し、優秀なるものは医科大学に入学させ正規な医学課定を修めさせると云う全く社会主義制度の妙味を如何なく発揮、無医地区の悩みを解消して居た。昭和四十一年ソ連を視察した時も、中共と全く同じ医助制度を設けて居ることを知って、国民の切実な必要は必らず適切な方法が開かれて行くものだ。
之を妨害するものは、日本のようなところでは国民の苦しみには目もくれず、自己の地位や欲望温存確保しようとする医師会やその他の政治ボス、幌偶役人であり、少くとも国民の生命を守る医療は自由主義国家群に於ても社会主義的制度をくみ入れることが絶対に必要と考える。
満洲国は保健、体育、医療は組織としても一体化され政府所管もその通りであった。
このことは医療あって保健なしの日本のバラバラ行政と全く思想的に異って居たのである。国民の生命を守り健康を増進すると云う一つの目標に向って総ての施策が考えられて居た。
私が通化省保健科に居る時、雪に覆れた通化の町や山々をみて、之はスキー場として新京奉天からも近いし、国民の体育練成の場として、又満洲国に新しいスポーツの導入を行う必要を痛感し、之は先づ適地であるかどうか専門家の意見をきくべきだと思い民生部の体育課に行ったら、当時満炭に居た曽って日本代表としてガルミワシュの世界オリンピックに出場した牧田さんを紹介してくれた。
牧田さんは早速通化に来てくれて場所も選定、今迄吉林の北山等規模で小さく雪の少い所と違いコースはいくらでもとれ雄大な山スキーを楽しめる適地であると保証してくれた。しかし正式なスキー場とし今後発展するためには少くとも50米程度のシャンチェを設備しなければならぬというのでこれも場所を設定設計してもらいフユンテンキンチェを作った。
その年の冬はいち早く関東軍の冬季演習が例年北浦で行われていたのを通化のスキー場を中心として壮大な山岳スキーを展開した。
通化事件の舞台となった竜泉ホテルは全満から集るスキー客で振った。スキー場が出来た最初の年だーったと思うが大同学院の同期の財前君が遠く熟河からスキーをかついで漂然と我が家に現れ、一週間滞在スキーを堪能して行ったが、彼も物好な男だなあと思ったが、なんとも嬉しかった。渾江の清流と白頭山につらなる通化の山々景色は全く素晴しかった。
白銀のしぶきを立てながら清流に囲まれた通化の街々を峨々とそびえる岩肌がまるで南画そのものの山麓をすべり抜く壮快さは一生忘れることは出来ない。
東辺道開発、匪賊伐に明け暮れて居たあの頃、どうしてこんなこと
に省で金を出してくれたのか今考えても不思議に思えるが、その時の省次長は後に浜江省の次長で行った中島さんだった。
私の通化は楽しい又悲しい運命の地となった。昭和二十年四月東安省から通化省勤務を命せられ、通化で敗戦、通化事件では柳河副県天野さん、通化副県長河成さん等がこのスキー場のシャ
チェの見える河原で従容と死んで行ったのである。
又通化事件で死亡した幾多の同胞がみな凍結した渾江に穴を掘りそこに棄てられたのである。
美しい渾江の流れが同胞の血で染められ、美しい河原は民衆裁判処刑の場となって行った。
その渾江の流れも翌春は何事もなかったように美しい流れに変り、衝々も苦しの娠いに帰って行た。只、スキー場のシャチェ丈は略奪されずに骸骨の如くその蛇腹をみせて居るのが遠く町からのぞまれ何んともささびしかった。
私は之から抑留八年の生活が始まり私の長女もこの通化の地に永遠に眠って行ったのである。あ 
れから二十五年、通化は私達にとっては悲しいが又楽しかった健全の地として思い出されてならないのである。
あ と が き
他国の花をあこがれるならば、私達はまずその美しい花が如何にして瞬かれ、如何にして育てられつゝあるかを学ぶことが必要と思う。
他国の花を、私達が愛する祖国の土に育てようとするならば私達は先づこの花が祖国の土地に育つかどうかをよく考えることが必要だらう。
私は満洲国官吏として八年、新中国の八年、十六年の大陸の生活から今、一日も忘れることの出来なかった愛する祖国の土を踏みほどばしろあの祖国への愛情にかきだてられて居る。
敗戦の傷痕末だいへざる祖国の姿を見、このヂレンマが徒らに他国の花をあこがれつつある姿を見て考へざるを得ない。
私は曽って王道楽土の建設を志し大陸に渡った友人、又祖国の再建に志しある人達、又八年間私の留居家族に厚い援助を与へられた人達、終戦後散って行った私の愛する三人の娘にこの文をささげたいと思ふ。
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Monday, May 20, 2013

通化事件

「通化」
満州と通化。通化は満州にいた人達にはあまりにも思い出の多いところになった。
通化はあまりにも多くの日本人が犠牲になって行った。
日露戦争以来通化はいつも日本軍の拠点となった。
満州国が出来てからも通化は最后迄反満抗日軍の拠点となりの拠点となり日満軍警の血をすゝって行った。
朝鮮と鴨緑江で界され長日山脈の懐にいだかかれた通化の町は山あり用あり満州には診し
い日本の風光とよく似た静かな町だった。
豊富な地下資源は、「光は通化より」と満洲工業建設に偉大な希望と将来を与へて居た。
長白山脈の樹海のはてに白雪を頂きそびへたつ白頭山はあの実々たる大陸には実に崇高そ
のものゝ姿であった。
昭和二十年大東亜戦争の悲劇的結末は再び通化の地に多数の日本人の屍をさらした。
昭和二十年形勢不利と見た関東軍は大陸の最后の拠点として通化を選んだ。
通化には一拠に数万の日本人避難民と日本軍が集結した。
この狭少な山嶽地帯に幾万と集った日本人は一度ソ聯軍と中共軍が侵入するや全く封じ込
められて了った。
遂に通化暴動事件が勃発した。
そして無数の日本人が死んで行った。、
火事場から漬物石を運ぶ
私は終戦の年の四月ソ覇と満洲国の国境省である東安省から通化省に転勤を命じられた。
任務は関東軍の通化拠点計画に基づく多数の日本人及原住民の保健衛生をやることだった。
着任早々省公署では関東軍、政府、各機関が毎日の様に防衛計画設定の会議がもたれ、こ
れにひっぼり出され夜を徹して計画し論議した。
一番困難な問題は人及馬の受入体制だった。あの山嶽ばかりの通化地区に軍並に全満から
の疎開者を収容することはどう考へても無理なことだった。
人に対しては先づ収容すべき住宅がない。食糧はどうするか。馬は馬糧をどうするか。
軍のある参謀がトウモロコシの下葉を一枚一枚とって食べさせようと大真面目で提案した。
通化地区以外からの物資の供給は全く見込みなかった。
夫々の担当部門の出す防衛計画は全く通化の現状からするなら、正に天文学的数字の累積
であった。
お互に提案したものゝ、顔を見合せお互にあきれ返るといふ状態だった。
私はある時会議の席上で、中央から来た総務庁の人達に、 本当にやるつもりなのかと質問
した。全く私達はノボセ上って居た。心の平生を失って居た。
又従来の形式主義が、このドタン場になっても抜け切らず、意味のない計画と論議にあけ
くれて居た。
敗戦のあわてかたは、いづこの地区でも同じことだったらう。
火事でうろたへきった人が、こともあらうに家の中から役にも立たぬ漬物石を運び出したと云ふ話しがあるが、考へて見ると正にこれと軌を同じうする.笑へぬ悲劇を演じたのであった。
然し当時の私達は全く真剣にやって居た。
関東軍の敗走
ソ職が参戦し、満州国の各国境から非常な速度で進入して来た。
首都新京もあやうくなって来た。
もうそのころは通化防衛計画に参加した関東軍、満州国政府中央関係者も、もういつのまにか姿を通化から消して居た。
全満からの疎開者は通化へ通化へと密集して来た。省や県はこの受け入れに寧日もなかった。
反対に日本軍はものすごい早さで四散し始めた。この年の七月敗戦間近に関東軍は全満の残った在郷軍人に召集令をかけた。
さなきだに打ち続く召集で男手の少くなって居た国境付近や・避遠地区の開拓団は全く女護島のような状態に置かれた。都市に於ても同様だった。
こうした召集兵は通化に沢山集って居た。
軍は愈々のドタン場になってから部隊の解散を命じた。この命令も極めて徹底しなかった。
ある部隊はそのまゝで居るものもあり、ある部隊は解散すると云ふ全く支離滅裂の有様であった。
こうして召集された老兵達はらりぢりばらばらに、あるものは歩いて、あるものはやっと列車の屋根にはひ上り、妻子の安否を気づかいながら四散して行った。
軍の将校其他の幹部や家族はトラックに食糧や被服を満載して、夜も昼もひさも切らずに、黄塵をけだてて朝鮮に向けて逃走して行った。通化市の周辺では既に暴徒集団が略奪を始めた。
逃走する日本軍の倉庫をやく炎は夜空をこがし、爆発する弾薬の音は天と地をゆるがし、暴徒の喚声は遠くに近くに響きわたり、通化は不安と恐怖のるつぼと化して行った。
こうした中に取り残されたのは部隊から置き去りを食った召集兵と、地万民だった。
只一つ、若い柴田軍医大尉のひきいる野戦病院が多数の傷病兵と地方民疎開者の病者を収
容、翌年二月通化事件に到る迄通化日本人の救済にあたった。
新京から南下した陸軍病院が動けぬ傷病兵を柴田大尉にあづげ、さっさと引き上げて了ったのた。
柴田大尉やその他のこの病院の幹部と、敗戦第一年の正月を私の家により集って、語りあかしたことは、私の終生の思ひ出である。
日本民族試練の新しい世紀のカレンダーはめくられたのだ。
私達は語りあかした。
柴田大尉は通化事件で捕はれ、遂に朝鮮県境の臨江の獄舎で消えて行った。
然し、この若い無我至純な大尉の魂は永遠に消えることはないだらう。
開拓団に女子供丈げを残し、地方日本人を全く省ることなく放置して逃げ去った日本軍の中にもこうした崇高な人達も居ったのだ。
自主性を失った、鋳型教育に徹した、自らの任務に対する反省心を失ひ去った軍幹部、総ては正に救ふべからざる動脈硬化症の状態にあったのだ。
日に新たに、強靭な信念のもとに、日本民族の危機の中に闘ひ抜いた、柴田大尉の精神こそは永遠に消えることなく吾々の魂をゆりうこかすことだらう。
自己を真に愛する者は、真に隣人も愛し得る。大尉の下にあった一部の人達は後、中共軍にあって、身を擬して中共軍の傷兵の治損にあたり、国境を越えた隣人愛は中共軍の感謝のまととなった。
ソ轍の侵攻は新京を愈々危くさせつつあった。中央から来た責任者はボツボツ姿を消して行
った。軍と地方との連絡も段々緊密をかいて行き、最后には全く別々の勝手な行動をとる様になって了った。何万と集結された日本軍は次々に姿を消して行った。
通化の町はこれらの逃走する軍のトラックでヒキも切らなかった。
こうした状況の中に私達は八・一五をむかへた。
丁度正午省次長室のラヂオの前に省の幹部が集まり悲壮な敗戦の詔勅をきいだ。
雑音が入り、よくききとれなかったあのラヂヲに耳をすりつけ涙にむせびながら私達はきいた。
次長は声を立ててないて居た。
総ては終ったのだ。私達は今迄のことも、これから先のことも考る力もなければ又考へようともしなかった。
ウツロな孤独な全くだとへようもない、風に吹きさらされた紙きれの様に省公署の玄関からチリヂリに帰って行った。
然し翌日爆ぜずして皆登庁した。私達は夫々何をなすべきかを考へて居た。
私は、おぼろげながら、私の八年は満州国へ捧げた八年である。私達が満洲の人達と作りあげたあらゆるものを次の時代のこの人達に引き継ぐべきだと決心した。
私は保健科の所管する書類や機械薬品等の整理を皆なと一緒に始めた。そして科内の中国人の責任者を指定し立会ひで引きつきを始めた。各科も同じようなことが始められて居た。
途中で姿を消したのは特務科長だけだった。
満州国皇帝が帝位を退くと共に省公害前庭に全員集合解散式を行った。皇帝の写真は焼かれ、全職員の起立黙祷のもとに煙と共に消えて行った。
私達日本人職員はそれからは登庁せずに夫々家に止まり、愈々異国に於げろ敗戦国民としての第一歩が始まった。
通化の町は全満各地から集まった数万の日本人避難民と本部に置き去りを喰はされた残留の兵隊ではち切れるような状態だった。畳一畳が大人一人の割合で各家庭宿舎割りをさせられ、玄関、廊下、押入総てが宿舎となって行った。
通化には政府関係の高宮及が家族が多数避難して来て居た.
通化は間もなくソ輔車と八路軍の手中に収められた。
日本人居留民会は間もなく若い連中に置きかへられ日本人解放聯盟となった。
間もなく政府の日本人及び中国人高官は拉招され始め、全満から日本人引率責任者として来た各県副県長がつれて行かれた。
民間の曽っての有力者の一部もつれて行かれた。これらつれて行かれた人達は二度と戻って来なかった。同時これらの責任者の携帯した金も没収されて了った。
責任者を失ひ、金を失った避難民は次々に路頭に迷って行った。
あの狭い土地に数万の日本人が色々働く道を探し求めても結局は同類あひはむの状態にな
らざるを得なかった。
日がたつと共に私達はどうしても通化から抜け出さねはならぬ。抜け出さねは共倒れになるのみだと誰しも考へるようになった。
中国人の話しによるともう南満は引き揚げが始まったそうだ。この噂は次々にひろがり私達の心を愈々かきたゝせた。
密集した生活、栄養失調と不衛生な生活、不安と狂操の生活はやがて病魔の温床となって行った。開拓団の集合宿舎には嬢疹チフスの大流行が始まった。そして全市民に蔓延して行った。こうした悲惨な状況の下についに最悪の事態が勃発した。
それは翌年二十一年の二月三日の所謂二・三暴動事件である。通化事件として知らぬ人もないだらう。
全く無謀な暴挙であった。然し止む得ない通化日本人の宿命であったのだらう。
あの狭少な地域に数万の人間が封ぢ込められ飢餓と病魔と生命と精神の不安、狂操の高まりはついに頂点に達し爆発して了ったのだ。
二月三日夜十時を期して通化の日本人は八路軍及政府てんふくに武装蜂起をしたのだが既に事前に発覚され、交戦いくぱくもなく惨胆たる敗北に終り、翌朝十一時頃迄女子と小学生を除く日本人全部が拘束され、倉庫、防空壕、監獄にプチ込まれて了った。
私は四日朝家の前に吊ってあった物乾のほそびさでしぼり上げられつれて行かれた。
竜泉ホテルの裏の谷間は無数の死体でおはわれていたが、この死体の上をはひ上がらせられホテルの前につれて行かれた。
監   獄
一日中町を引っぼりまわされた私達はいづれ殺されるものと覚悟をきめて居たが、夕闇がせまる頃私達は通化県公署内にある監獄にプチ込まれた。直ぐは殺さぬらしい。
監獄の部屋は、……     未完

Sunday, May 19, 2013

詩心と病院


花巻にて、北上川がすぐ近くにあり、日曜日まだ山や家の裏手に残雪があったが久しぶりに妻と堤防に行ってみた どんよりとした肌寒い春の靄の中に北上川も遠くの北上丘陵も物皆総て靄の中に春をぢッと待っていたS.41.2
詩心と病院
 東北の病院には脳卒中、胃癌が多く、しかもいわゆる手遅れの病の形で来院する。昭和四十一年の当院の入院患者の半数は、入院してから一年以内に死亡している。我々のような農村病院では都会の病院とは違い、もっと農村に入り込み衛生思想の啓蒙に力を注ぐとともに、市町村や農業団体の実施する健康相談や成人病検診等に積極的に力を貸すことが必要となってくる。私はときどき衛生講和を頼まれるが喜んで御引き受けしている。しかし農村の人達に飽きないように話をすることはなかなか難しいようである。スライドなどを用意して行っても、たいてい即席会場なので暗くするのが大変だし、やっと設営しても数字やグラフでは暗くなった事を幸いと居眠り組みが多くなる。時には民謡でも歌って度胆を抜き寝向きさま眠気さましをしてやらないと調子が出ないこともある。昔保健所に居る頃作った高血圧予防の歌をひとつ。

元気だね節

おこるなりきむなくよくよするな
あまい味噌汁さっと煮て
飯は麦めし腹八部
お酒はほどよく笑って暮らせ
高い血圧低くなる
エーサホイ元気だね

お料理作りは女房のつとめ
青い野菜に人参、トマト、
ワカメ、コンブや果物を
食べる家には中風はないよ
長寿の家とほめられる
エーサホイ元気だね

家のしまりは亭主の任務
いろりこたつはストーブに
部屋はポカポカ換気良く
太陽差し込む窓つけりゃ
福の神様入り込む
エーサホイ元気だね

花巻は岩手県の中心部で北上川に面した静かな町である。西に奥羽の連峰がつらなり東は北上丘陵のなだらかな起伏が続き、北に岩手山、東に早池峰の秀峰が雪に輝き、北上川には今猫柳が一面に銀色の芽を葺き、みちのくの春を告げている。こうしたけがれなさ美しい自然の風景と、この大自然のもとで培われた素朴な農村の人たちの心が、高村光太郎や宮沢賢治のつきることを知らぬ美しい詩の源泉となったことだろう。
私のところの病院は北上川のすぐそばで、賢治が愛する農民の溜めに作った羅須地人協会の森が見える。ここには賢治が農民に対する限りない愛情をこめてうたった「雨ニモマケズ」の詩碑が建っている。

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

詩碑は高村光太郎の書いたものである。私は毎朝この森や北上河畔を散策するのが楽しみである。賢治の農民に対する尽きることを知らぬ深い愛情の詩を心に繰り返しながら、真の人間愛に支えられた。農村の人達から本当に親しまれ愛される、暖かい農村病院を作り上げたいものである。

「為患者服務」

舞鶴公園の朝の遠望1961夏
「為患者服務」
 私は、終戦後中共に抑留され八年間中共軍と満州の山野を転々と歩いたが、その時感じた事は医療には敗者もなければ勝者もなく、また政治、形態の変化がどうあろうとも、また民族を異にしようとも、医師の対象は病める人間である事に変わりはない。
たとえそれが資本主義社会であっても、共産主義社会であっても、この道だけは共通のものであるという事だった。
明日の運命も分からない。
いつ祖国の土を踏めるのかも分からない放浪の生活の中で、日々生きがいを感じつつ長い八年を過ごしえたのは医師という聖業を持ち、それに没入出来たからだったと思う。
中共の医療従事者の基本原則は「為患者服務」であった。
毎日のように続くいわゆる洗脳運動も医師であろうが雑役であろうが、その行動の一つ一つが患者のためになされているかどうかの一点に集中、点検批判された。

Saturday, May 18, 2013

年々増加する無医村

患者と私
暖かい農村病院を
岩手県立花巻厚生病院長
伊 藤 裕 一

臨床外科第23巻第4号より
説明を追加
年々増加する無医村

 東北の田舎病院の院長としてまた一介の臨床医として、
この地方の農村の人たちと接し病気の相談相手をしながら寧日のない日々を過ごしている。
私自身秋田の片田舎の農家の生まれであり、日々接する農家の爺さん婆さんは、
私の曽っての両親や郷土の人たちの姿である。

 長いきびしい農業労働の後が日に焼けた額の皺、ふしくれだった手や足の隅々に染みこんで居るこの人達と接しながら、いつも私は烈しい百姓仕事に明け暮れていた両親の姿を思い出すのである。

 東北の後進性と農業労働の烈しさは若い人達を農村から去らせ、村には女子供と老人ばかりのいわゆる「三ちゃん農業」によって現代の農業は支えられており、私達の日常に接する患者はこうした背景の中からやってくるものである。

 啄木が、
   田も畑も売りて酒飲み ほろびゆく ふるさと人に心寄せる日
---あはれかの我の教えし子等もまた、やがてふるさとを棄てて出でづるらむ----と歌った岩手の農山村の姿は 啄木の死後すでに半世紀たった今日、当時とどれほど変わっているだろうか。
時代は益々農村と都市との格差を甚しくし、村を離れるものが年々多くなり、貧困と家庭不和、貧困と病気、こうした事に原因する家庭悲劇が相変わらず新聞紙上をにぎわしている。

 岩手県は日本一大きな県である。山と長いリアス式海岸に囲まれた岩手県は僻地が多く、年々増加する無医地区対策にはホトホト困っているようである。つい最近啄木の生地、玉山、渋民診療所の管理責任者のある医師が、不正な医療請求をして、それが明るみに出され、保険医の指定を取り消された。この医師はまたパチンコ店をやっている弟に代診さしていたという。
 ところが村では、無医地区になっては困ると医師の慰留運動を始めたと新聞は報道している。何とも岩手らしい悲しい話である。

 自然の厳しい条件のもとで黙々として働き続けた病めるこうした地域の人たちを思うと、国や県の対策もさることながら尊い人命を扱うわれわれ医師として、もっと深く考えねばならぬ事ではないだろうか。

昨今、医師ならびに医界に対する社会に対するきびしい批判は、お互いに深く反省しなければ、患者と医師の間に取り返しのつかない相互不信の底流を作り上げ、わが国の医療に重大な支障を来すであろう。

 何といっても医師の幸福は、患者から信頼されることであろう。
患者と医師の間に相互信頼の精神がなければ真の医療は成り立たない。
最近医学の急速な進歩は医学的知識の吸収に急で、医学実践のための基本的精神が疎かにされやすく、人間尊重、生命尊重の精神にとぼしくなり多くの問題を惹起しているようである。
正宗の名刀も、持つ人、使う人のいかんによっては恐るべき犯罪の凶器ともなる。

Friday, May 17, 2013

スケッチ欧米医療施設視察2



アムステルダムホテル前公園6.2pm9:30
まだ明るい
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NewYorkHiltonHOTELの部屋より遠くハドソン川
6.21(日)午前4:25
暗黒の中に美しく輝くネオン林立する高層ビルの中に月が静かに照らして居る